宮古島引越記




沖縄との出会い

昭和63年、当時はバブルの時期であったにもかかわらず、文学部出身者にとって、一般企業への 就職は多難を極めていた。ぼくは日本文学専攻という、さらに、世の中の役に立たぬ出身であった から、余計だった。クラスでも、就職できたのは半分ぐらいだった。就職できなかった者達はわざと 留年したり、教員になったり、家業を継いだりするしかなかった。
ぼくは幸い、就職できたほうの 半分に入っていた。 といっても、ぼくが就職したのは、東京の表参道にあった社員数15名ぐらいの零細企業であった。 当時、3Kということばが流行っていた。ご存知ない方のために説明するとそれは「きたない」、 「きつい」、「くらい」の略である。わが社は、「きたない」、「きつい」の二つは余裕でクリアして いた。ところが「くらい」に関して言えば、わが社は幸い明るかったので、満たすことはできず、 その代わりに用意されていたのが、「金がない」という、Kであった。当時、腹いっぱいメシを食う夢 を良く見たものだ。普段のおかずは、コロッケか生卵であり、たまのご馳走は「餃子の王将」の 餃子定食であった。
そんな会社であっても、曲がりなりにも1年4ヶ月働けたのは、この会社で尊敬できる人に出会った ったからだった。その人は忙しい人で年中、日本中を飛び回っていて、ぼくも、そのほとんどに同行さ せてもらった。そんな出張先のひとつに沖縄があった。初めて経験した、信じられないほどの暑さ 、文化の違い、人間の暖かさ、それらがぼくに強烈な印象を残した。もっとも、この時点では、ぼくは 移住のいの字も考えていなかったし、ましてや宮古島も知らなかった。


沖縄通い

平成元年の七月、表参道を辞め、本社が湯島にある会社に移った。今度の会社は社員数だけでも、 前の会社の100倍ぐらいいるという、大きな会社だったので、給料も良くなった。収入的に食い物に 困ることは無くなったが、今度は仕事が忙しすぎて、食堂が営業しているような時間に退社することが できなくなったので、相変わらず、食生活は貧弱であったが。
平成2年、3年は沖縄に行っていない。今思うと不思議だが、特に用事もないのに遊びに行くには 沖縄は遠すぎたのだろう。
明けて平成4年にダイビングを始め、その年の七月に3年ぶりに沖縄を訪れることになる。このときに 潜ったのが、本島北部の本部・伊江島・伊是名島・伊平屋島エリアで、沖縄の魅力として、海の中の 魅力が加わった(このときお世話になったKさんはどうしているのだろうか−追記 今年、そのKさん から久しぶりに年賀状が着いた。今も、本部でサービスをやっているようだ)。以来、毎年、夏休みの たびに、沖縄に潜りに来るようになった。最初は本島とその周辺、それからだんだん離島にはまって いくという、沖縄病の王道を進んだのである。宮古島にも3回ほど潜りに来ている。ただ、この時点 でも、沖縄に住むことは本気で考えていなかった。憧れてはいたが、現実的ではないと思っていたの である。


TO DIE,TO SLEEP,MAYBE A DREAM

湯島の会社は今思ってもいい会社だった。入社当初は営業だったのだが、記録的に売上が悪い営業だっ たため(ある月など、もう少しで売上がマイナスになるところだった)、すぐに、事務に回された。こ れが結果的には自分にとっても、会社にとっても、正しい判断だった。適材適所という言葉はこのとき のぼくのためにあったとしか思えない。どんどん、仕事が面白くなり、会社にのめりこんでいった。 また、上司であるT部長も社員の自主性を重んじるひとだったから、自由と責任と権限とを与えてくれ 、余計なことに気をとられず、仕事に注力できた。
転機は、ぼくがいちばん大事に思っていたひとが自分から離れていったことだった。仕事ばかりしてい るうちに、ぼくはひとりぼっちだった(もちろん、彼女が去ったのは仕事が原因ではなく、ぼく自身に ある)。今までずっと、当たり前に考えていたことが決して当たり前ではないことがわかってきた。人 生の目的とか、自分の生きかたとか、昔、若かったころに捨て去った問題がまだ解決されていないこと に気がついた。ぼくはここでサラリーマンとして死ぬのだろうか。ぼくは20歳になったとき、がっか りした覚えがある。自分の凡人さを見せつけられたような気がしたからだ(ぼくは夭折願望が強かった )。 やがて、ジミヘンが死んだ歳も過ぎ、ジャニス・ジョプリンが死んだ歳もあっけなく越えた。このころ の日記がある。ぼくの旧HPから抜粋しよう。

さいきん、考えているのは、沖縄に住むこと。

いつまでも、東京になんかいられやしない。

自分を見つけるのはなんと、難しいのだろう。

馬鹿になりきって暮らしたい。

頭を使うのはうんざりだ。

スーツにネクタイに革靴にみんなもういらない。

このまま、定年まで、サラリーマン。

いいのか、ほんとうに?

ぼくは33歳になっていた。


太陽と海と相談して

平成11年(去年)、旅先として選んだのは南大東島であった。今回の旅行は今までとは少し 趣が違っていた。ぼくは、自分の価値観から何からまったく自信を無くしていた。
島に到着したのは午後も遅い時間だったので、ダイビングには行かず、民宿から20分ぐらいの浜へ 行った。太陽があり、海があり、ぼくはそこに座って、考えつづけた。沖縄に住むことのメリット、 デメリット、解決策。住むとしたらどの島か。今働いている会社を辞めることのメリット、デメリット 、解決策。このときの、日記。

7月2日(金)

急な坂道を下って、海岸に着いた。

夕方ではあるが、日は高く、肌に焼き付け、

空もどこまでも青い。

砂浜ではない。

この島には砂浜なんて、しゃれたものはないのだ。

荒削りな岩が噛み合ったところ。

蟹が走り、ハゼが跳ねる。

一時間ほど、海と一緒に、

ぼくが、何をすべきなのか、考えた。

わからなかった。

そのとおり、結論は出なかった。
夜、島の人に「なんくるないさ」という言葉を教わった。「どうにでもなるさ」という意味だという。 その言葉の響きが、ぼくの中で共振しはじめた。


那覇にて

南大東島・粟国島と回って、那覇に着いた。ここで、数人のないちゃーに知り合った。彼らは、現実に 沖縄に住んで暮らしている。今まで、ダイビング関係者以外のないちゃーには会った事が無かったので 軽い驚きもあった。彼らと話していてわかったのは、ほんの少し、勇気を出せば(勇気というほど大げ さなことでもない)、彼らのように沖縄に住めることだった。10年のサラリーマン生活で、何時の間 にか、ぼくは守りの人生に入っていた。何も守るものが無いのに?まず走ってみてから考えていた、 自分の若いころ、それを思い出してきた。
そうだ、走ろう。


東京にて

東京に帰って、1週間ぐらい経ったころ、課長に辞意を伝えた。突然だったので、課長も最初はやめ るのがぼくだとは思わず、課の別の誰かの話かと思ったという。でも、ぼくのことだと分かると、仕事 はどうするのか、と聞いてきた。わかりません。これから考えます。ぼくはひとごとのように答えた。 「向こうでの仕事が決まってからT副本部長(T部長は副本部長になっていた)に言ったほうがいいよ 」課長はそう言ってくれた。わかりました。ぼくは言ったが、T副本部長には翌週にも言おうと思った 。1週間の期間をおこうと思ったのは課長の顔をたてたかったからだった。
ぼくの話を聞いたT副本部長は驚いていたが、課長と同じことを言ってくれた。つまり、宮古での仕事 が決まったら改めて俺に言え、それまではこのことは聞かなかったことにしてやろう、と。そして、有 給休暇取っていいから、仕事を探しに行ってこい、もし、宮古で仕事が見つからなければ、このまま、 ウチで働けばいいんだから、とまで言ってくれたのだった。涙が出そうになった。こんなにいい人たち を裏切って、会社を辞めるのはよくないことなのかもしれない。
次の日曜、宮古のSさんに電話した。Sさんは宮古でダイビングショップをしている人だ。20年前、 ぼくと同じように、ひとり、宮古に住み着いた。 「ぶち切れちゃえ!」49歳のSさんは電話の向こうで言った。「一生は一度しかないんだから、 やりたいことをやったほうがいいよ。仕事はなくても、食い物ぐらい何とかなる。こっちにきたら食べ られる草とか教えてあげるからさあ」
嬉しかった。東京のやさしい上司たちのやさしさも嬉しかったけれど、積極的にぼくを押してくれたの はSさんが初めてだった。仲の良い友人でさえ、こうは言ってくれなかった(もちろん、その友人もぼ くのことを思って、引き止めてくれたのだ)。もっとも、草を食べる気は無かったのはいうまでもない が。


リストラ開始

それからはあっという間だった。宮古で住むアパートはSさんが格安で見つけてくれた。毎晩、遅くま でかかったが引継ぎも終わった。課の仲間、そして、他の部署の人、全国のお世話になった人に挨拶を して、退職した。これからが、ぼくのリストラ開始である。リストラクチャリング、再構築である。 ぼくは、これから、自分自身の再構築を始めていく。 これを書いている今も、まだ仕事は無く、退職金を食い潰している毎日だけど(笑)、なんくるないさ。 そんなふうに、がんばらずに、気負わず、縛られず、生きていく。






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